これまでは香取市で就農するまでのお話をいくつかのシリーズに分けて書いてきましたが、今回は就農してからのお話です。
夢がかなったところから今につながるお話。
就農するまでのお話はこちら
就農後 初期
色んな道のりを経てようやく就農し、農業活動が始まった2012年。いいお花をたくさん作って安定的に供給できるようになったら一般家庭にも胡蝶蘭の切花を気軽に飾れる文化を普及させるんだ!と意気込んで、とにかくがむしゃらに全部のことを手あたり次第やりました。目の前で「見つけた」ことをとにかくやりました。
就農当初は香取市で初めての法人設立しての新規就農だったため地域メディアが取材しにきたり、地域の広報誌にも載ったりしてちょっとイケイケな感じもしていました。あと、5秒だけ全国放送にも映りましたw
始めたころの株の状態はそこそこよかったので出荷量も十分にありましたが、だんだん就農準備段階に立てていた計画からずれが生じていきます。
週6日の出荷作業と新規開拓の営業、温室や株のメンテナンスをしていかなければいけません。最初は嫁も現場で一緒に作業をしていましたが、結婚するまでの仕事とは全然違う動い方や体の使い方をしたからヘルニアとぎっくり腰を併発してしまい現場から離れることになりました。
その後はあまり腰に負担のかからない胡蝶蘭の花束やアレンジ作り、ブログやSNSでの宣伝などをやってくれていたので大分助かりました。
また、当時は現場責任者としての私と営業や経営方針の責任者として社長がいましたが、現場での作業は苦手らしくもっぱら打ち合わせで計画の確認と営業先の提案などだけでした。
いくつか葬祭業の営業で契約を取ってきて売り上げのベースを作ってくれもしましたが、現場での作業と地域の葬祭業や福祉施設、お花屋さんへの営業もしていた私の負担は結構大きかったです。
今の私ならこの仕事量は無理、と言っているでしょう。
初期から折れる
それでも最初の一年は勢いで押し切りましたが、徐々に無理が出てきて売り上げも下がっていき、株の状態も悪くなっていき赤字が積み重なっていきます。
2013年の6月頃でしょうか、一人の力であがいてもどうすることもできない無力感に襲われ体が思うように動かなくなりどうしょもなくて泣き崩れました。
そのあとは、糸が切れたかのように力が入らなくなり、仕事しなければいけないけど午前中はもう気力が起きず仕事にならない、ひどいときは一日動けない、という時期が続き、メンタルクリニックに助けを求めました。
どうやら自分で心身の不調を感じられるのはまだ本当の鬱じゃないってことらしいですが、仕事にならないので何でもいいから体が動くようにしてほしいと懇願し、気持ちを落ち着ける薬とやる気が持続する薬をもらいしばらく通院することになりました。
薬の副作用が予想外のところに出て精神的にもきつかったので、結局半年くらいでやめてしまいました。本来薬を急にやめると離脱症状で大変なことになるのですが、そんなきつかった記憶はありません。というか、薬は作用していたのかな?って感じです。
んでもって、生命保険に特別料金がついて掛け金が倍くらいになってしまったことも結構な痛手です。
折れたけど折れたままごり押す
依然として生産管理・温室のメンテナンス・経理・葬祭業者や福祉施設などへの営業、そして週6日の出荷作業 を一人でやらねばならなかったことには変わりはなく、状況は好転しません。
そんななか、私の家族の一大イベントがあり、この日は社長に農場を一日管理してほしいと前々からお願いしていたのですが、社長だけに重役出勤だったようです。
その日の午前中にお客様から注文の電話があって、農場に胡蝶蘭の切花を受け取りに行っていいですか?ということだったので、対応してもらおうと社長に電話したらまだ家にいるとか言っています。
挙句、お客さんに待ってもらってとかいう始末。
これを機に、当てにしてはダメだな、と思ってしまいました。
とにかく俺が頑張らねば、いろんな人に協力してもらって叶った就農だから絶対に失敗してはいけない、プレイングマネージャーとしてやっていかなければならないんだ。
の「ねばらない」づくしでやっていました。
就農の準備段階で経営者の心構えや事業をスモールスタートするときのストーリーを叔父と話しているときに
「最初は経営者としての面と現場作業員として面を持つプレイングマネージャーとしてやっていき、資金に少し余裕が出てきて人を雇ったらマネジメント側に移行していくんだ」
という話を自分なりに解釈してプレイングマネージャーは経営者と作業するのを「独りで」こなさなければいけないと思っていました。
多分この辺のやり取りに対する理解の仕方もそういう特性なんだなと思います。
んで、独りでやっても好転するはずもなく、資金も潤沢にない状態で売り上げも計画よりもずっと少なかったため、再生産に資金を回すことができずどんどんじり貧になっていきました。
精神的にひどいストレスだったけど、独りでやらねばの恩恵で気持ちの低空飛行を身に着け事なきを得ました。(得ていない)
会長である叔父と社長と俺で定期的に経営者会議を行って、現状の報告、どうしてこうなったかの検証、計画の修正、うち手を考える、というような流れでその後の経営方針を決めていたのです。
その中で、立てた計画に対して実務が伴っていないし、修正するのが遅すぎるということで、
何でこんな簡単なこともできないんだ、中学生でもできることだぞ
と指摘を受けました。問題点は非常に単純なことだからしっかりせぇ、ということだったんだと思います。
計画を立てる→ずれたらすぐに検証する→修正案で実行する→ダメなら助けを求める
ということなんでしょう。たぶん。
諸々のストレスなどで「ああ、自分はなんて無能なんだろう、もっと頑張らねば」という解釈になってしまい、独り馬車馬状態が加速するのです。
計画を基に生産管理も修正したり、出荷量を調整したけど通年で安定して取れず、営業も生産量が安定しないから業者に対して強気で出れらない。
これじゃいかんとパートさんを雇ってみるも指導で付きっきりになってしまうので、時間的な改善ができなかったのです。
色んな交流会とか出てみたりして、できた繋がりは成功だったのですが、キャッシュ面では全然何ともなりませんでした。
もじゃさん代表取締役になったけども、また折れる
そんなこんなで3年が経ち、当時の社長が退き自分が代表取締役になりました。
元社長はこの状態では続けていくのは難しい、やめた方が良いのでは、という意見だったのですが、大いなる期待を受けて始まった私の夢の農業を終わらせたくない一心で、自分が代表になって続けます、ということ(だったと思います。結構前なのでちょっとあやふや)で、会社を続行することに決めました。
もとより、3年をめどに私が経営のかじ取り出来るようにしていくつもりだったのですが、会社は軌道に乗らないし、資金とか大変なことになっているので、存続さえ怪しい状態でした。
ということで、何が何でも回復させなければいけないのですが、資金も少なく温室中の株の様子を確認して、これから咲く花の量を計算すると、どうしても支出を抑えなくてはいけない。
光熱費がピーク時には60万以上かかり、それだけで赤字になってしまうし、その後の季節で回収できる見込みが立たない。
どうしたらいいんだと悩みもがいている間にも目減りしていく資産と、やることが多すぎて管理が行き届かず荒れている温室と株、計画を立てても遂行できない苛立ちと不安、同時期に農業や事業を始めた仲間はある程度軌道に乗り始めて取り残されたように感じ焦りと恐怖。
2年くらいもがいてみたのですが、いろんなネガティブな感情と自分一人でやらねばというストレスに耐えられなくなり、再び仕事をしないといけないのに体を動かすことができなくなってしまいました。
最低限の出荷しかできなくなり、もう営農どころの騒ぎではなくなりました。
叔父にこれ以上続けていくのは難しく、会社を解散させるか休業状態にしたい旨を伝え、農業の法人は設立するのが難しいから一旦扱いを検討すると一時預かりになりました。
うまくいかない原因→ADHDと気づかなかったこと
会議を重ね2017年4月から休業にすると決まり、関係各所に連絡したり、税務署に休業届を出したりと忙しかったですが、ほんの少しだけ肩の荷が下りた感がありました。
かなりタイトなスケジュールでしたし、ストレスでまともな判断と行動ができなくなっていたので、残った花の処理で売り上げが休業状態なので会社の口座に行くと休業にならなくなると思い、休業しているので自分の売上として扱いました。
それがまずかったらしく、すぐにストップしてこれ以上やらないよう言われました。
まだたくさん花が残っているのに花が売れなくなり農業系の仕事が一切できなくなったので収入を得る手段がなくなってしまったのです。
何でこんなことになってしまったのだろうかと自分を振り返る機会が強制的にできてしまいました。自分の今の状態がどんなもんかとざっくりとでも知りたかったので色々調べていると「ADHDの人は飴を噛んでしまう」と記事ををきっかけにADHDの可能性について調べてみました。
調べてみるとなるほど、計画立てるもの遂行するのも今までちゃんとできたことないし、没頭してしまうこと、いろんなことに気が散ってしまうこと、小学校の頃落ち着きのない子だったこと、当てはまることが多かったので、メンタルクリニックで診てもらった結果、やっぱりそうでした。
私はADHDでした。それと併せて、特定の状況下でうつ病のような症状が出る適応障害であることも告げられました。
法人経営でうまくできなかった点を振り返ってみると、ADHDであることが分かっていればもっと別の対処法があったのになーと残念な気持ちになりましたが、まぁしょうがない。
ADHDだとわかっていれば
経営と現場の仕事は他に人を常時雇用してでも分けただろうし
立てた計画のタスク管理も他の人にやってもらうようにできたはず
そして何より、特性上できないことを知っていれば自分を無能だと否定しないですんだはず
2013年にも同じような状態になってますし、ADHDだろうなと思っていっているので、まあそうだよね、という感じにライトな受け止め方でしたが、意外と心の深い部分ではそうではなかったらしいことが後で内観して感じました。ブログ書いている今でも手が震えますもん。
事実と気持ちに折り合いがついたように思っていましたが、実は臭いものには蓋ではないですが見て見ぬふりをして事なきを得ていました(得てない)
気持ちがマイナス方向に振り切れて行動不能に陥ることはほとんどなくなりましたが、そのひずみと気づけないストレスで気持ちを上げることが難しくなり、私は運がよく周りの人に恵まれているので、動いてよ、と差し伸べられる手はいっぱいあるけど、どうしてかしら、上手い事波に乗れない、乗るのが怖い。
でも、植物の楽しいことを皆とシェアしたい、植物と楽しめるように植物のことを知ってもらいたい、自分みたいに組織や社会の仕組みに馴染めない人に居場所を作るきっかけを見つけてもらいたい。
そんな思いだけはいっちょ前に今も輝いているのです。
で、ストラテラという薬を処方してもらってしばらく続けていたのですが、どうやらあまり効果がないようです。通院費もかさむ一方でしんどくなり効果があまりないし、もういっかとなり前回同様行くのをやめてしまいました。
でもADHDとわかったことで、できないことはやめましょうと思うようになり、自分ができるスタイルで仕事をしようと気持ちを切り替えて再スタートです。
仕事のスタイルはまだ模索中ですが、光熱費のかかる胡蝶蘭は矯正ストップせざるを得なくなり、光熱費と手間のかからない多肉しょぅ物に転換して農業はワークショップを介させてもらったりイベント出店したり細々と維持しています。もともと得意だったブログやweb制作の知識を活かしてwebの仕事が収入の大部分を占めるようになったのです。
でも荒れ果てた温室、小規模の多肉植物の苗たち、これでは全然生活もままならないのです。
今はwebライターや制作などで何とかしのいでいるけど、まだまだ全然何ともならない状態。
それでも一歩ずつでも進んでいかないといけないのです。
もじゃさんの冒険はまだ始まったばかり!
もじゃ先生の次回作にご期t・・・・
って打ち切らないよ!
私は植物によって居場所を作ることができて、今も植物のお陰でモチベーションを維持できてます。こんな素晴らしい植物をもっとみんなに知ってもらいたいし楽しんでもらいたい!自分のように居場所を作るきっかけを教えてあげた!
ということで、今も生き方は模索中です。人は執着というかもしれませんが、植物によって生かされている私はちょっとずつでも楽しいことを発信し続けたらなーと思います。
最後に
事業やるようになって大きな壁にぶつかるまで何事もなく過ごせてきたのは、偏に両親がしっかり社会性を身に付けさせてくれたおかげなので感謝してもしきれないです。
就農するにあたり、そして就農してからも叔父や社長にもたくさん助けられて今こうして生きているので、力不足でご迷惑をたくさんかけていることを申し訳なく思うし、感謝しています。
それこそ誰も知り合いのいない香取で、たくさんの仲間ができたのでほんと運が良いですし気持ち的には支えになっているので、いやほんと運がいい。
とにもかくにもなんとかせねばならないので、もじゃさんは色んなことをします!
だからほんともう助けてください!というのが尋常じゃなく苦手なのでこの場を借りていっておく。
これがもじゃさんなんだなぁと見守ってくれると嬉しいです。
ということで、もじゃさんのこれまでのお話はこれでおしまいです。
このあとは、今に繋がります。
ブログで更新していることやツイッターやフェイスブック、あとたまにインスタで何しているかが分かりますよw
最後までご覧いただきありがとうございました。
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